谿聲山色(けいせいさんしき)

 秋も深まり益々木々が色付き始めました・紅葉狩りを楽しむ参拝者で山深き当山も実に賑やかであります。中国の詩人そとうば蘇東坡は次の一偈を呈しております。
   
谿聲便ち是れ廣長舌
   山色豈に清浄身に非んや
   夜来八万四千の偈
   他日如何んが人に舉似せん

谷川のせせらぎは仏のお説法の声であり、山の景色は仏の清浄なお姿そのものであります。この夜通し響き渡る八万四千の仏のげ偈文の真意を、これからどうやって人に伝えようか。
道元禅師は蘇東坡を受けて次のように詠んでおります。
   
山の色 谷の響きも みながら
   わが釈迦牟尼の 声と姿ぞ

 さて、「観光」という語があります。現代語としてのそれは英語のsightseeingを訳したものです。しかし、漢語の出典をたどれば、『易経』の「観(風地観)」に行きつきます。
 
風の地上を行くは観なり。先王をもって方を省み、民を観て教えを設く。國の光を観る。もって王の賓たるに利ろし。
ここから、観光とは、その国の風光や文物制度をよく見るあるいは余所の山水や風物等を遊覧することを言うようになったのです。
 一方仏教では、心静かな智慧をもって世界をありのままに正しく見る事を「観」と言います。すなわち、心の眼で見る事を「観」と言うのです。
 観音様は観世音菩薩、すなわち世の中の音を見る菩薩様でございます。私達の肉眼は形あるもの、色のついたものしか見ません。正確に言えば見ようとしないのかもしれません。しかし、観とは心の眼で見る事ですから、心静かにありのままに見れば、衆生の心の叫び声も手に取るように見えますし、紅葉の木々に吹く風の色だってありありと心眼に映るのです。
 観光の観も拝観の観も心の眼で見る事なれば、寺院の境内に一歩足を踏み入れたなら、先ずは自分の呼吸を調えて心を静かに落ち着けてください。観の眼が開かれるにしたがってそとうば蘇東坡のいう「谿聲便ち是れ廣長舌、山色豈に清浄身に非んや」の真意が実感できると思います。そうなってこそ本当の拝観あるいは観光であります。

第十二番札所 佛通寺 執事 布野 宏征