
| 功山寺縁起 |
| 下関市長府功山寺は、元応二年(一三二〇)に臨済宗の寺として、伊勢の人虚庵玄寂(きょあんげんじゃく)禅師によって開かれ、金山「長福寺」と呼ばれていました。当時は元寇の危機の時代であり、長門の国府があり、長門(中国)探題がおかれていた長府と、鎮西(九州)探題がおかれていた大宰府には鎌倉幕府の要人が赴任していた関係で、北条得宗家の援助を得て、長福寺の開基の北条時仲は、長福寺を五山十刹の次に位する諸山の一つとして建立しました。 その後、足利尊氏や、長門守護厚東氏、同じく長門守護大内氏など、武門の信仰があつく隆盛を誇っていました。 戦乱で荒廃した寺を、慶長七年(一六〇二)に初代の長府藩主毛利秀元が修理し、宗派も曹洞宗・笑山寺に改め毛利家の香華寺となりました。秀元が死去して後に、その戒名「智門寺殿功山玄誉大居士」にちなんで功山寺と改称し、明治以降は丸山晩夏(一八六七〜一九四二)によって仏殿天井には石楠花が画かれたために、通称「しゃくなげでら」とも呼ばれるようになりました。 元治元年(一八六四)十二月十五日高杉晋作が功山寺の五卿に謁見、その門前で義兵の旗挙をなし直ちに下関新地会所を襲い、藩論を倒幕へと統一し、藩長同盟を促進し、明治維新へと大きく踏み出したことはよく知られているところであります。この意味で、当功山寺は、近代日本発祥の地と言っても過言ではありません。 また功山寺の仏殿は、裳階付き一重屋根入母屋造りの桧皮葺、化粧垂木は放射線状に配置され、窓は花燈窓と云う特種な形のもので、柱も上下部が急に細まり礎石と柱の間に礎盤が入っているなど、建物の様式は代表的な唐様禅宗式建築の典型的なものであり来合柱に残る墨書により、同種の我国建築物では日本最古のものとみなされ、建築史上最も重要なものとして昭和二十八年に国宝に指定されました。なお、仏殿の御本尊は秘仏千手観世音菩薩で、中国観音霊場第十九番の札所でもあります。 なお、国宝の仏殿の他に、総門(室町時代の建造物)は国の登録文化財に、木造地蔵菩薩半跏像、絹本着色楊柳観音坐像は山口県指定文化財に、山門、功山寺境内地、書院、輪蔵、千手観世音菩薩像、韋駄天尊立像、二十八部衆立像、絹本着色仏涅槃図は下関市指定文化財に、それぞれ指定されています。 |
| 第十九番札所(山口県下関市) 功山寺住職 有福 孝岳 |