
| 和泉式部ゆかりの地・生湯 |
| あらざらむ 世の外の思い出に 今ひとたびの 逢うこともがな(百人一首より) 当山の所在地である浜田市「生湯町」の地名は、平安時代の女流歌人・和泉式部に由来すると伝えられいます。 和泉式部は平安時代中期に、紫式部や清少納言などと共に、華やかな王朝文学者の一人として才色兼備、その情熱的な和歌の数々は女流歌人として高い評価を受けています。 和泉式部は懐妊中にもかかわらず、九州大宰府にいる父を尋ねて、石見の国を西へと下っていました。ところが当山の麓の下府の里に辿り着いたところで急に産気付かれました。式部は近隣にあった大家(庄屋)を訪ね、庭隅にあった平らな大岩に腰を下ろさせてもらい、休息を取ると共に当家にお産のお願いをしました。しかし当時お産は穢れと考えられていたため、家僕に追い立てられ、泣く泣くこの地を後にし、多陀寺山を越えて、生湯の地に向かわれました。やっとの思いで生湯の里に辿り着いた式部は、無事に出産をし、嬰児に産湯をつかわしたので、この地を生湯と称す様になったと伝えられています。また当山の近くには、「嫌谷(正式には湯屋谷)」と「地獄谷」と言う場所があります。これは和泉式部が大家を追いやられ、生湯に辿り着くまでの間、苦しい中をイヤイヤ歩いたので「イヤ谷」、地獄の苦しみの中を歩いたので「地獄谷」と名付けられたと言われています。更に式部が産気付き腰を掛けたとされる岩は、現在も当山の麓の旧家に存在していると伝えられています。 当山にお参りの際には、和泉式部にあやかり一句詠まれてはいかがでしょうか。素敵な歌が浮ぶかも知れませんよ。 |
| 第22番札所(島根県浜田市) 多陀寺 住職 茶円 宥勝 |