正楽寺と『熊澤蕃山』


 熊澤蕃山は江戸初期の儒教の陽明学者であり、備前池田藩主光政公に仕え、多くの藩政改革の足跡を残された。正しくは熊澤伯継・藩山了介とよび、息游軒と号した。
 蕃山三十九歳の時、光政公の三男の政倫(後の輝禄公)を養子とした後、許しを得て隠居し正楽寺に隣接する地域を隠栖地として供の者を従えて居を構えた。
 それまではこの地域を寺口村と称し、正楽寺即ち当寺を中心に海に下るまでの約五キロの狭い平野に二十四の僧坊があった。蕃山がこの地に居を構えてからこの地を「蕃山(しげやま)」と呼ぶようになり現在に至っている。
 『新古今和歌集』源重之の
 「つくば山 葉山蕃山 しげけれど 思い入るには あわらざりけり」 がこの地の環境や、蕃山自身の心境であるとして、寺口村から蕃山村に改め、自分の姓も「蕃山」としたと言われている。
 蕃山は本来儒教の信奉者であるが、この正楽寺には自然の風光と共に格別に信仰の念篤く、当寺の裏山に両親の墓を建立し、これにより正楽寺住職との交遊は親密を極めたものと思われる因に裏山の両親の墓所に草木が一本も生えることがない。
 幕府は蕃山がこの地に僅か二年たらずで出奔せざるを得なかった。明石、京都、吉野などを転々として、最後に現在の茨城県古河市に於いて幽閉の内に没した。
 しかし、この後正楽寺の地に実弟・従者の墓が各所に建立されている。蕃山夫婦の位牌も当寺持仏堂に歴代住職と共に祀られている。
 蕃山の偉業、特に河川改修、千拓・開墾による新田の開発の指導は近郷近在の人々に大きな糧を与え、その遺徳を慕い蕃山の地に移り住み、蕃山を祀る当寺に対する尊の崇念は更に流布され現在に至っている。
 平成二年、熊澤蕃山没後三百年忌を迎え有志の方のご支援ご協力により当寺本堂に於いて法要を営んだ。その後有志による顕彰保存会が発足し、毎年命日に当寺において蕃山先生を偲ぶ会を催し、記念講演など各種行事を行っている。

第三番札所(岡山県備前市) 日光山 正楽寺