| 中国観音霊場は地方の観音信仰深い信者の方々の、切なる希望と期待に応えるべく、去る昭和57年3月、中国地方5県内の観音様を本尊とする、又は、観音様をお祀りしている有名寺院37箇寺によって、呱呱の声をあげました。そして、遅々としてではありましたが、確実に歩を進め、本年(平成10年)で17年目をむかえました。 この間、中国人民共和国における観音信仰のメッカである普陀山と友好交流の誼を結び、毎年秋、この聖地にお参りし、団参法要を営んで、本年9月に8回目を迎えるまでに成長いたしました。 しかしながら、寺院側の不慣れからでしょうか、なかなかこの霊場会の活動を理解して頂けず、甚だしきは、その存在すらも、中国5県の方々にさえ、御存じない人がいらっしゃると耳に致します。 この度、この『観音だより』を発行致しますのも、より多くの観音様に信仰を懐いていらっしゃる方々に、この観音霊場の存在を知って頂くとともに、より信仰を深めて頂き、出来るだけ満足のゆける巡拝をして頂くための、信者の皆々様と寺院霊場会の懸け橋の一助にも致したく思い立ったものです。 そして、その編集なども、霊場会の若い僧侶の方々にお願いして未来性のある、将来を展望した観音信仰の指針として、観音信者の皆々様に、役立たせて頂こうと企画いたしました。 巡礼にお出かけになる人々には、いろいろなケースがおありでしょう。人生の過去においての悩み、苦しみ、或は未来に対する惑い、不安、いずれの人もこうした重荷を背負って巡礼に旅立たれる事でしょう。こうした方々が観音菩薩と共に、この37箇寺の霊場を巡拝なされることにより、その満願の暁には、多少なりとも、その重荷の軽減されることを祈るものであります。 この苦しく辛い世に、観音様に身を託して過ごされた日々が、たとえ長い人生のほんの短い日時であろうとも、我が人生における最良の幸せな日々であったことを、心の底から感謝される霊場でありたいと願うものであります。 ささやかな『観音だより』ではございますが、21世紀を通じ永久に未来に向かっての、観音信者の方々と、この中国観音霊場会との好き結び付きのたくましい架け橋となるよう切に願って止みません。 |
| 奈良時代に観音さまが日本に伝来されるや、その広大無辺の功徳力、特に観音経に説かれた「観音妙智力 能救世間苦」のご誓願は当時の為政者を歓喜させた。 そしてさらに「念彼観音力」に始まる諸々の功徳は日本の観音信仰を決定的なものにした。一心に観音さまの名号を唱えるならば、いついかなる時にも出現して私たちをお救い下さるのである。難しい論理とか厳しい修業が求められる訳ではない。真心を込めて不乱に祈ればご利益を被る事ができるのである。人々はこんなに有難い仏さまに接した事がなかったのである。 霊場巡拝の歴史においては、奈良時代に、大和長谷寺の徳道上人が冥界の閻魔大王から観音さまの33の印を授かった事にはじまった。後年、花山法皇がこの観音霊場を中興され、庶民は後世安楽と現世利益を求めて、盛んに巡拝をはじめたと伝えられている。 こうして観音信仰は爆発的に広まったが、信仰が盛んになればなるほど、ご利益が多ければ多いほど、渇望するものがあった。それは中国の『観音浄土・普陀山』への参詣である。 ところが当時の人々は島の正解な位置も知らなければ、大きな舟も、航海の術もない。小船に食料と水を積み込んで、上から板を打ち付けてもらい、命を賭して船出した僧俗が多数あったという。 しかし国情によって普陀山への渡航は長く禁じられ、普陀山信仰は半ば風化しつつあったといっても過言ではない。 中国観音霊場は、観音の功特を求める人々の仰望に応えて創設された事はいうまでもない。しかし10年前、当霊場会の先遣隊が初めて普陀山を訪問した時、「この交流事業は観音さまのご意向」としか言いようのない深い縁(えにし)を全員で感じた。 これは普陀山側にとっても同様の体で、まず日本に『中国』を冠する霊場がある事に驚き、生き仏として敬われるご高齢の妙善法師をして「あなたたちが来るのを待っていた。望みがあるなら何でもお応えしましょう。」と言わしめるまでに、多くの時間も言葉も要しなかった。 いうまでもなく交流とは相互が生き交うことを指す。幸い日本からの交流団の派遣は第9次が計画されるまでになったが、普陀山代表団を招請するとなるとなかなか事情が許さないのが実情だ。しかし、たとへ細くともこの事業を継続する事が観音さまの思し召しであり、普陀山への渡航を試みて海の藻屑となった多くの先人への供養でもあると肝に銘じたい。 |
| 中国観音霊場会会長 佐 藤 泰 欽 第25番鰐淵寺住職 |
| 第1番札所 西大寺住職 坪 井 全 広 |

