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第6番札所(岡山県倉敷市) 瑜伽山 蓮台寺

8月1日 百万遍念珠くり法会
 お盆を迎えるにあたって蓮台寺総本殿に精霊壇を飾り、参加者全員が大きな輪となり一心に光明真言を唱えながら念珠をくる法要です。
 念珠をくり、真言を唱えることのよって大日如来さま、ご先祖さま、そして自分が一体となってご先祖さまをを供養し、仏様の「おかげ」も頂けるという法要です。
 どなたでも参加できます。参加料はご志納(昼食弁当の接待有ります。)です。
 参加ご希望の方は必ず事前に申込予約してください。

お問い合わせは・・・岡山県倉敷市児島由加2855 
  TEL086-477-6222 FAX086-477-5551



第30番札所(鳥取県倉吉市) 打吹山 長谷寺

450年前の『絵馬』 現代によみがえる
当山奉納絵馬(県文化財指定)は、40数点あるが、今年正月に天文18(1545)年、雲州住中井平三兵衛尉平朝臣久家が奉納した白馬(雄)・黒馬(雌)の版画が久家の末えいの中井一民さん(北海道在住)より奉納されました。
 特に白馬は、勢いのある筆づかいで描かれており、「抜け馬伝説」もあります。
 この2点の絵馬は中井家が2回にわたり修繕し、1回目が安永6(1776)年、2回目が明治31年に一民さんの祖父の益蔵さん(倉吉市中河原)が修繕しました。
 一民さんは82歳ながら、コンピューターを利用し、馬の線を再現、アクリル透明の水彩絵の具で450年ぶりに絵馬をよみがえりました。
 完成したカラー絵馬は十数点あり、初観音今年の3月1日(旧暦1月18日)に絵馬堂に展示します。
 また、本年は午(うま)年でもあり、当山では絵ハガキを製作中です。
 ご来山の際、是非ともご覧下さい。


第24番札所(島根県飯石郡) 慶向山 禅定寺

みがわり観音
 寺の創建は天平年間(729年)僧行基が峻険な峯に伽藍を興し、今は道も良く便利になっていますが昔を偲ぶとき頼るのはお祈りしかなかった筈です。その草庵に本尊聖観音を安置したのが起源と言われています。
 時に三尊の阿弥陀如来を合祀し、四囲の景観になぞらえて慶を向かえると慶向山と号し禅定三昧の境地にはいれる処から禅定寺と名付けられました。その後、四弘誓願が当時の帝、聖武天皇の叡聞に達し賽祚無窮を祈る勅願寺となりました。尚本尊聖観音様(国重要文化財)は「みがわり観音」さまとして信仰されています。故事によれば、ある冬、来る日も雪が降り続き、住職は身動きできなくなってしまったので餓死寸前でした。ある夜、夢枕に観音様が現れ「朝早く玄関の戸を開けて見よ“イノシシ”が眠っておるのでその猪の「モモ」の肉を切って食べるがよい。その内に雪も少なくなり山をおりる事もできよう」とおっしゃいました。住職は朝起きて、さてと思いながら玄関の戸を開けて見ると夢の通り猪が眠っているので思案の末、命には変えられぬと禁断の殺傷心をおこし、夢の如く「モモ」の肉を切り取り食べてしまいました。夜が明けてみると玄関の猪はいなくなっていました。はてと思い、落ちた血のあとを辿ってみると本道の厨子の中まで続いていました。住職は何と恐ろしいこと、命のない拙僧の身を助けんと身を変えてお助けいただいたと。その後観音様は苦しみを持った人々をお助けになりました。
 こうした故事よりあまた身代わり観音として信仰されています。



第8番札所(広島県福山市) 中道山円光寺 明王院

『明王院五重塔 よみがえる人々の祈り』  
NHK教育テレビ「国宝探訪」にて放送される
明王院には、二棟の国宝建造物が在ります。
 1.観音堂(本堂・元応3年【1321年】)
 1.五重塔(貞和4年【1348年】)
 平成13年末、NHK教育テレビから取材・放送の以来があり、本年1月20日から同月27日まで一週間かけて、テレビの取材・収録が行われました。そして、2月23日(土)に本放送。同25日(月)再放送されました。内容は五重塔に焦点を絞り、これを建てた人々は?初層内部に描かれた仏様は?五重塔ご本尊様の御正体は?など、色々な面から、五重塔建立の目的、即ち建立の為の小資をたのむ一文勧進に応じた、当時の門前町(草戸千軒町)の人々をはじめ、中世の多くの人々の秘められた祈りに迫るものでした。 
 幸いに、広島大学の安嶋助教授が事前に詳しい調査研究を済ませておられたので、その成果を公表される良い機会ともなりました。
 中世の人々からずっと引き継がれた明王院五重塔建立の祈り、即ち弥勅菩薩信仰、都卒天内院往生希求の篤いあこがれを現世の清らかな祈りとして、再興したいと願っております。




第21番札所(山口県萩市) 潮音山 観音院

萩を代表する歴史景観

 萩市を代表する都市景観を市民や旅行者によって選定するという事業で、「歴史景観部門」に観音院が選ばれました。
 選定理由は「特徴ある二重屋根の建物(観音堂)が玉江(地域名)の船だまりや背後の山、周囲の集落と一体化し、萩を代表する歴史景観としている」というものでした。すでにこの風景は江戸時代の毛利藩政の頃から、『萩八江』や『萩八景』に「玉江の秋月」「倉江の帰帆」として選び画かれ、伝統のある風景ですが、これが今日また萩を代表する歴史景観として多くの人々の支持を受けたことは、鎮座まします観世音菩薩をはじめとする諸佛、これを護持し信仰してきた幾世代にわたる多くの方々のこの上ない喜びであると信じております。
 古くは、御本尊は十一面観音で、大同3年(808年)4月20日に現在地に鎮座との記録があります。その当初は今日のような二層の屋根を持った堂などはなく、この様式を持つようになったのは江戸初期の承応年間(1652〜55)に荒廃した観音堂を目にされた岩国藩主吉川家奥方が大修復を発願されて再建がなったという記録より、この時でありと考えられます。記録を見るとこの頃に
十一面観音は聖観音に本尊の位置を譲られ下間側へ移っておられます。そして、上間側に毛利家歴代家譜と悪七平衛影清(平家の武将)の「爪切り観音」も鎮座されたようです。ところが嘉永4年(1851年)に民家からの失火で本堂共々焼失しましたが、翌5年往時のままに再建され今日に至っております。
 平成20年には、鎮座1200年をひかえ観音堂の大修復の計画はありますがその実施までには資金集めをはじめとして幾多の問題を抱えています。