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第三番札所(岡山県備前市) 日光山 千手院 正楽寺


ロウでできた仏様
 備前市の東に位置する三石は、ろう石の産地で知られている地域です。
 このろう石の鉱脈の発見者が、桃山時代の八木浄慶という人です。浄慶は、非常に親孝行の人であったため、当時の藩主、池田輝政公よりその行いを褒められ、高六石の永代扶持を与えられ、たびたび姫路城にも出入りを許されていたといわれています。
 輝政公が逝去した後は僧侶となり、三石で産出するろう石をもって神像・仏像を彫り、地域の神社仏閣に納めてその菩提を弔いました。
 当山にも浄慶作の大日如来が本堂内陣の脇に祀られています。
 この仏像は、浄慶が鎌で彫ったと言い伝えられており、ろう石ということで白色かと思われるかもしれませんが、何年もの香煙による影響のためか黒くなっています。


第三十二番札所(鳥取県鳥取市) 補陀洛山 慈眼寺  観音院


元気〜明日の詠讃道へ夢と元気を〜

 観音霊場を巡拝いたしますと、それぞれのお寺でご詠歌が歌われております。この中ではそのお寺のご本尊のご利益等が詠まれているのです。
 一口にご詠歌と申しましても様々な流派があり、また詠舞といい、ご詠歌と共に舞を奉納することもあります。
 今回のご詠歌を広く知っていただく為に、来る十月十九日(火)、鳥取県民文化会館梨花ホールを会場として天台宗開宗一二〇〇年大法会慶讃叡山講福聚教会西日本奉詠舞大会が開催されることになりました。
 当日の日程は左記の通りです。
 この機会に一人でも多くの方がご詠歌にふれ、親しんで頂けますよう、ご案内申し上げます。


第二十五番札所(島根県平田市) 浮浪山 一乗院 鰐淵寺

鰐淵寺の一丁地蔵について
 古来、鰐淵寺に参詣するには四つの入口がありました。
一つ、西片の大社町から遥堪峠を越えて。一つ、南方の出雲市日下町(出雲ドームの北)から矢尾峠を越えて。一つ、北方の河下港から南へ(現在のバス道路)そして各道共に寺を一丁目として、大体一里にわたって各方面へ一町毎にお地蔵さんが立っていらっしゃいます。例えば遥堪峠は二十一丁という具合です。(一丁は約109m)だからお詣りなさるお遍路さんは、あと何丁で観音さまを拝めると、汗を拭きながら手を合わせ、此所まで来れたことを感謝し、先の無事を祈りました。又、峠には茶店も出た時代があり、接待と称して果物やわかめなどを振る舞っていました。
 これらのお地蔵さんは、舟形光背を持った硬貨の花崗岩製の立派なものですが、明治維新の廃仏毀釈により、破壊されたものも多々あることは残念でなりません。
さて、前号(二十一号)にて、地蔵様の功徳について書かせていただいたところ、「お地蔵様はどちらにおいでますか?」との質問が寄せられました。
 本坊前の高地蔵様以外に、六地蔵が三ヶ所、そしてこれらの一丁地蔵があることをここに記させていただきます。
 尚、バス駐車場の近くに、北への五丁目の地蔵が拝され、寺へ近付くに従って、四、三、二丁目のお地蔵様が道端に拝されております。一丁目は旧道の大木の根元にあり、目につきにくいのでご注意下さい。


第十番札所(広島県尾道市) 大宝山 権現院 千光寺


『冬至の日の出』とご本尊さま
 昨年の冬至(十二月二十二日)の早朝、千光寺で日の出を見る集いが開かれ、向島の岩屋山からの昇陽が尾道水道を跨ぎ千光寺本堂の欄千の中央とご本尊千手観音像と一直線に陽光で結ばれる「古代神秘」が顕現され、来観者は感動を禁じ得ませんでした。尾道古代ロマンの研究者、稲田全示教授(尾道大学)は『冬至の太陽はもうこれ以上南下しない、と古代人を恐怖から救う日であり、超権力者が造った(?)古代都市尾道は、冬至の日に岩屋山から真っすぐ陽が昇ってくるこの地点に千光寺のご本尊千手観音像を安置した。(三重岩が被いかぶさり狭いがこの場所でなくてはならなかったものと思われる)
 又、本堂の裏山にある巨岩に人工的に割られた跡があり、この岩の割れ目からも冬至の日の出が真正面に見られる。さらに不思議なことに向島側から見る冬至の夕日は岩屋山にある同じような巨岩の割れ目の間に真っすぐに沈んでいく。』と尾道古代ロマンの一端を話されました。
 今年の冬至(十二月二十一日)には日の出と岩の割れ目とご本尊の不可思議な関係を是非体験旁々ご本尊様にもご参拝下さい。


第十九番札所(山口県下関市)金山 功山寺

終焉と出発
 功山寺の前身である長福寺は、虚庵玄寂禅師を開山とする臨済宗の寺院として、一三二七年に創建されました。
 当時の日本は元冦の危殆に瀬していたので鎌倉幕府は長府(長門国府)に対蒙古の重要拠点を置いていた関係上、北条家の一族(北条時仲)が寺の創建に尽力し、長福寺は五山十刹に次ぐ諸山の地位にありました。
 その証が。現在国宝として知られている仏殿(本尊千手観音)です。この仏殿の様式の特徴は、裳階(もこし)つきの一重屋根入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだふき)屋根の曲線美と重厚さ、化粧桷(けしょうだるき)、花橙窓(かとうまど)、四半瓦敷(しはんがわらしき)の床などにみられます。当仏殿は一度も消失したことがなく、創建当時の趣を今日まで伝えており、日本最古の禅宗唐様建築です。
 守護大名大内氏の滅亡と共に長福寺は荒廃しますが、慶長七年(一六〇二)、初代長府藩主、毛利秀元が寺を修復して以来曹洞宗に属し、慶安三年(一六五〇)毛利秀元の死後、その法名「智門寺殿功山玄誉大居士」をとって、功山寺と改称して今日に至ってます。
 功山寺には仏殿以外にも、@総門A山門B法堂(本堂)C大内義長の墓D毛利家歴代の墓E七卿(三条実美ら)の間F経蔵G高杉晋作騎馬像及び回天義挙の碑等があります。このように、功山寺は。守護大名大内一族の終焉の地であると共に、近代日本発祥の地でもあるのです。