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第四番札所(岡山県真庭郡) 醫王山 感神院 木山寺
神仏混淆の名刹

 当山は弘仁六年(八一五)弘法大師空海が佛縁を止めた霊地である。往古より木山寺・木山宮が併祀され、殊に中世は美作国南山郷の惣社として崇敬された。爾来、戦国武将・諸大名の信仰により篤く保護され、美作での地位は重要であったことを伺うことが出来る。
 本尊は薬師瑠璃光如来、十一面観世音菩薩で、鎮守神として延喜七年(九〇七)牛頭天王を薬師如来の化身として祀り、降って正徳四年(一七一四)京都伏見稲荷より稲荷神を十一面観音の化身として勧請し、善覚稲荷として祀る。爾来、当山は家内安全、除災招福、商売繁昌、五穀豊穣、交通安全の祈祷寺として尊崇されている。
 他の霊場寺院と異なる伽藍の趣は、以上の様な理由からくるものである。



第三十番札所(鳥取市) 喜見山 摩尼寺

お戒壇巡り

 摩尼寺へお詣りすると、色々と思いを残されることでしょう。中でも戒壇巡りは印象の強いものの一つでしょう。
 戒壇の一寸先も見えない闇の中を、手探りで歩き、御本尊様の真下に懸かる「極楽の錠前」に触って出てきた時、お堂の薄暗い明りでも、なんとなく頼もしく、普段感ずることの出来ない光の有難さを覚えることでしょう。
 戒壇巡りは、秘仏の御本尊様の下を巡って御本尊様の分身ともいえる錠前に触れることによって仏様と縁を結び、心の中に仏縁の種を蒔き、大切に育ててゆくことをお誓いする場であります。
 心の中に蒔かれた仏縁の種を育ててゆくのは、自分の心次第です。心の中に蒔かれた仏縁に水をやり、光を与え、大切に自分自身を育てようではありませんか。あなたも戒壇を巡ってみませんか?



第二十四番札所(島根県三刀屋町) 慶向山 禅定寺

「身代わり観音」伝説

 本尊聖観音は秘仏で三十三年に一度開帳されます。この観音様には次のような伝説があります。
 古伝によれば、ある冬、来る日も来る日も雪が降り続き、住職はとうとう餓死寸前のある夜、夢枕に観音様から、「明朝玄関の戸を開けてみよ。『イノシシ』が眠って居るので、その猪を食べよ」と夢諭があり、住職は未明に、さてとは思いながら玄関へ出て見ると、猪が眠っているので、思案の末「命には替えられぬ」と、殺生心を起こし猪の肉を食べてしまいました。
 夜が明けて玄関を見ると猪はいない、落ちた血のあとを辿って見ると、本堂の厨子の中まで続いていた。住職は「何と恐ろしいことを……命の無い拙僧の身を助けんと身を猪に変えて助けて頂いた」と。その後、観音様は人々をお助けになるということで今日も『お助け観音』として信仰されている。


第十一番札所(広島県瀬戸田町) 潮音山 向上寺

日本の美 国宝三重塔

 瀬戸田は古い町です。古往今来住民は常に移り変わり、町の様子も年々変わり、山の形、野の姿までも時代と共に推移してきました。昨年は夢の架け橋と言われた『しまなみ街道』も全線開通となり、日一日と変貌してゆく中に、独り潮音山上の塔のみ古き瀬戸田の歴史と文化の誇りを伝えているかに思惟されます。
 当時は室町の初期、生口の太守守平が大通禅師を迎え、百有余人の修行できる向上庵を建立したことに始まります。この場所は、禅師修行の地、唐土の径山に肖ていたことにより、諸堂を営み、其の景を写させたそうです。
 納経帳のご朱印には、本尊に『聖観世音菩薩』をお祀りするご因縁から、『施無畏(せむい)』「大意=名世音菩薩の観異・・・観音様を信じ御名を念ていれば、なんら恐れるところはなく、何時もおそばにいてお助けくださる」と記し、梵字を表す印を捺して、参詣者のたゆまぬ誓願の一助になれば、と祈念しています。


第二十一番札所(山口県萩市) 潮音山 観音院

明治維新と観音院と志士達

 中国地方一帯十ヶ国を治め、権勢を誇っていた毛利氏が関ヶ原の合戦に敗れたとはいえ防長二州に封じ込められ、百二十一万石から三十六万石に減封の憂き目を見た上、しかも外冦防備の要衝の名目のもと、辺鄙な萩への移封はまことに無念の極みであった。二百六十年の長き間、毎年正月年賀の礼での主従の挨拶の逸話が残されていると言う。
 『殿!いよいよ……』
 『いや。まだまだ早い!』 
 禅問答ではない。徳川幕府への反攻を意図したやりとりで、幕末まで続いたという。
 このように蓄積された怨嗟の念が尊皇攘夷、倒幕運動、明治維新とつながっていくことになる。
 吉田松陰の松下村塾における久坂玄瑞、高杉晋作等を代表とする志士を輩出する。彼等志士達が、おおいに利用した会合所が、河一つ隔てて萩城を眼前に望み、大道無門に境内を開放していたのが潮音山観音院であった。