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| 第五番札所(岡山市) 金剛山遍照寺 法界院 |
| 岡山の後楽園と観音さま |
岡山の後楽園は江戸時代の貞亨三年(1688)頃から岡山藩主の池田綱政公が家臣の津田永忠に工事の総括を頼み、元禄十三年(1700)に完成したといわれている。平成十二年で築庭三百年を迎えることに成り、今年はこの後楽園で数々の行事が催しされております。 後楽園は昭和二十七年に国の特別名勝に指定され、日本を代表する林泉回遊式庭園です。 池田綱政公は、築庭を発願される以前から法界院の観音菩薩に深く帰依されており、元禄十年九月二十二日に庭園内に慈眼堂を建立し、ご本尊として観音菩薩を安置し、毎月二十二日には法界院の住職が参詣して国家安寧と家門繁栄を祈願していた。 また三十三年毎にこの観音菩薩像は、法界院の方に出開帳され一ヶ月間は一般の人々が自由に参詣し、後楽園の観音様と結縁を深めていたことが、御後園(後楽園の旧名)諸事留帳や法界院寺史記等に伝わっている。 慈眼堂の脇にある高さ約四mの烏帽子岩は、築庭の時に36個に石を割って運び込み、もとのように組み立てたもので、その作業のための木の模型が今も保存されている。 岡山藩主の生活していた後楽園の中心となる延養亭から見る慈眼堂は、北東の鬼門に祀られており、岡山藩の鎮守として池田公も一般の人々も、常に観音信仰を重視されていたことが推測される。 |
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| 第三十三番札所(鳥取市) 乾山東隆寺 大雲院 |
| 東照宮と徳川将軍と大雲院 |
本堂には西国三十三観音が安置され、中国観音を満願されると共に、西国観音もお砂踏みをすることで満願出来ることは皆様もご承知ですが、寺院の歴史になるとなかなか理解していただけません。 西日本ではあまり馴染みのない東照宮別当時として一六五〇年に建立されると共に、徳川将軍位碑安置所・鳥取藩主祈願寺の役割をいたす事になりました。明治三年に現在の地に移転させられ、その時に東照大権現のご神体をはじめほとんどの東照宮関係の物は不必要とのことで大雲院に引渡され、三百五十年の間とぎれる事なく東照宮別当寺として現在もその役割が続いています。今年は、その東照大権現のご神体が上野寛永寺で開眼大法要が厳修され、大雲院が開創三百五十年になるのを記念して九月十日に慶讃大法要をいたします。 【慶讃行事】 平成十二年九月十五日より十月十五日まで、秘仏ご開帳と寺宝展を開催致します。この機会に是非お参り下さい。 |
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| 第二十七番札所(島根県安来市) 瑞塔山 雲樹寺 |
| つつじと「元禄の庭」 |
雲樹寺は、つつじのお寺として親しまれています。特に、枯山水式禅宗庭園はお寺の北側の南面する斜面に約三〇〇株のつつじを配し壮観です。この庭は、建物の一番奥に有るため、水池があると伽藍の為に悪く、自然と、水にない庭、枯山水庭園となるわけです。よく考えて築庭してあると思います。数年前一五〇〇年代の伽藍配置図(絵図)が発見され、それには既に描かれていて、築庭時期は開創当時まで遡ると推定されます。しかし、元禄時代に伽藍の復興の記念に再築庭と伝承され"元禄の庭”と呼んでいます。六月末頃には、きれいに剪定され皆様をお迎えしています。どうぞ饒益をお受け下さい。お待ちしています。 |
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| 第十三番札所(広島市西区) 龍泉山 三瀧寺 |
| 山・野・草 |
当山では少しでも自然を残し、ご参拝の方に心安らぐ時間を過ごして戴けるよう努めております。鬱蒼と繁る木々、清流、苔むした岩肌など。そして一年を通して境内のどこかで咲く草花は数知れず、ここ数年春蘭やえびね、ねじ花すらも減りつつあり、このまま放っておけば絶えてしまう草花が増えそうな状況にあります。 そこで少しづつではありますが山野草を境内に植えることにしました。ただ最近はよく似た花ではあっても外来の草花が増えており、それらは大変強いので日本固有種が負けてしまうことになりますから、植える際には気をつけるようにしています。 ご参拝の方の中には自分の庭の草花を移植して下さる方もあり、その人たちは、大勢の方に草花を楽しんで頂けることを喜んでいらっしゃいます。 「花の鐘 つけば微笑む 地蔵尊」 |
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| 第十九番札所(山口県下関市) 金山 功山寺 |
| 功山寺開墓秀元没後 三百五十年を顕彰す |
長府毛利家は元就の四男猿懸城主穂田元清の二男秀元を藩祖とし、功山寺の開祖で末家の筆頭で幕府から準国主の待遇を受けました。 秀元は文禄の役、慶長の役に朝鮮出兵の総大将となり秀吉に親認されました。豊臣秀吉が肥前名護屋に赴く途中下関海峡で遭難した時激流をおして救出しました。十七歳で秀吉の養女と結婚し正三位、参議、羽柴安芸侍従を名乗ることになりました。 関ヶ原合戦で西軍に加担した毛利氏は防長二国に減封、秀元も豊浦三郡、厚狭郡の一部五万石に減封されました。 秀元は慶長七年長府に入府し、無住で荒廃していた長福寺を父元清の法号から笑山寺に改称、臨済宗から曹洞宗に改宗し、洞雲十二世三庭龍達を住職に請じ宗風を盛んにしました。一六五〇年秀元七十二歳で病いで没しました。法号は智門寺殿功山玄誉大居士。 二年後、二代光弘が秀元の霊碑を笑山寺に祀り功山寺と改称しました。 功山寺では秀元没後三百五十年に当りその功を顕彰せんため、慰霊祭を本年十月一日〜十一月三十日の間で開催します。 ・国宝仏殿開扉 ・毛利家墓地公開 ・開墓秀元三百五十年法要 ・毛利墓地万灯会 |